<ウクライナ東部のドンバスをロシアに譲るという提案が波紋を呼んでいるが、そこは単なる領土ではなく、国家の存続に直結する防衛線でもある>
8月15日、米アラスカ州でドナルド・トランプ米大統領と会談したロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、ウクライナ戦争終結の条件として、ロシアと国境を接するウクライナ東部のドネツク州とルハンスク州、通称「ドンバス」地方をロシア領土とし、そのほかの地域では現状で前線を凍結するという条件を出したと言われる。トランプもロシアには勝てないのだから領土を渡して戦争を終結させるべきだと主張しているが、それは大きな間違いだ。
第一に、プーチンが欲しがっているドンバスはまだ持ち堪えられる。第二に、ドンバスを明け渡せばウクライナそのものが消滅しかねない。
ドンバス割譲の影響は政治社会にとどまらず、軍事的にもロシアのさらなる侵攻を許すことになりかねない悪手なのだ。
ウクライナは一貫して、ロシアに占領された領土を放棄しない立場を貫いてきた。憲法上も領土の割譲は認められない。
「この方針を曲げる者はいないし、曲げることもできない」と、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は今月初めに語った。「ウクライナ人は土地を占領者に差し出したりしない」
ドネツクとルハンスクの両州はどちらも工業地帯として知られ、ロシア語話者も多い。親ロシア派武装勢力の拠点だったこともあるが、ロシア侵攻の惨状を目の当たりにした今、住民はウクライナに残ることを望み、戦っている。
2014年にウクライナ南部のクリミア半島を占領したロシアは、両州で親ロシア派の武装勢力を支援して分離独立を後押しし、全面侵攻を開始した2022年秋には、南部のザポリージャ州、ヘルソン州も含めた4地域の独立を宣言した。
ドンバスは、ウクライナ戦争で最も激しい戦闘が行われてきた地域だ。ロシアの執拗な攻撃を受けたバフムト、アウディーイウカ、ポクロウシクなどはいずれもドネツク州に位置し、多大な犠牲を出している。
ロシアは7月初め、ルハンスク州全域を掌握したと主張したが、西側の分析では、ウクライナがなおも一部を保持しているとされる。
アメリカのシンクタンク「戦争研究所(ISW)」によれば、今月時点でウクライナはドネツク州の約6500平方キロ、すなわち約4分の1を維持している。前線の動きを日々追っている同研究所は、8月17日に以下の分析を発表した。
「ドネツク州の残りをすべて制圧するには、ロシア軍は複数年にわたり、厳しい戦闘を繰り返す必要があるだろう」
プーチンはトランプに、ロシアが本気を出せばドネツク全域を奪える、と言ったと伝えられるが、その主張も誤りだとISWは反論する。2014年の侵攻開始以来、一貫してドネツク制圧を試みてきたにも関わらず、いまだに達成されていないという。
ISWによれば、ザポリージャとヘルソンについても、およそ4分の3の支配に止まっている。
ドンバスは多くのウクライナ人が命がけで守ろうとしてきた領土だ。
「ドンバスには、日々砲撃と命の危険にさらされながら暮らしているウクライナ人がいる。彼らを見捨てることは、裏切りと同じだ」と語るのは、ゼレンスキー率いる与党「国民の僕(しもべ)」所属のオレグ・ドゥンダ議員だ。「この地域を譲れば軍の反乱が起き、社会全体に亀裂が広がる恐れがある」
それだけではない。ウクライナが支配するドネツク州西部には「要塞都市」と呼ばれる拠点が点在している。その中核を成すクラマトルシク、ドルジュキウカ、スロビャンスクなどの都市は防衛線を形成し、長年、ロシアの西方侵攻を阻んできた。
ISWは「ウクライナは過去11年にわたり、これらの要塞帯に時間と資金、労力を注ぎ、強固な軍事インフラを築いてきた」と評価する。
つまりドネツクは、他の地域をロシアの侵略から守るための「防波堤」だと、ウクライナ国会外交委員長のオレクサンドル・メレジコは語る。
「この要塞線は、これまで一度も突破されたことがない」とドゥンダは強調する。「この防衛線を放棄すれば、ロシアに中央ウクライナへの道を開くことになる」
仮にトランプ主導の交渉でロシアがドネツク全域を獲得すれば、ウクライナ軍は急遽、隣接するドニプロペトロウシク州などに新たな防衛線を築く必要が出てくる。防衛に適した土地とはいえず、西側諸国からの「巨額かつ即時の支援」が求められるだろうとISWは分析する。
戦略的に重要な領土を敵に奪われるとどうなるか、いい例がクリミアだ。
2014年のロシアのクリミア占領は、ウクライナの主権と国家アイデンティティに対する「直接的な挑戦」だったと、イギリスのシンクタンク「王立防衛安全保障研究所(RUSI)」の準研究員、ナティア・セスクリアは指摘する。
「クリミアを奪われたことで、ウクライナは海軍の拠点を喪失しただけでなく、2022年の全面侵攻時にロシア軍が一気に北上するための前哨基地を提供してしまった」
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