松下幸之助 成功の理由

2022年のイグノーベル賞で経済学賞を受賞したイタリア・カターニア大学の研究は、私たちの「努力は報われる」という信念に一石を投じた。

運と成功の関係を統計学的に分析

才能があっても運がない人より、平凡でも運に恵まれた人の方が、経済的成功を収める確率が高かったのである。

松下幸之助が語った「成功の理由」
興味深いことに、日本を代表する経営者の中にも「運が良かった」と公言する人物はいる。パナソニックの創業者・松下幸之助である。

実際、幸之助の半生を丹念にたどると、必ずしも計画的な成功ではなかった。


当時、幸之助には明確なビジネスプランがあったわけではない。むしろ、病気による離職を余儀なくされ、生活のために始めた事業だった。しかし、結果としてこの「不運」が、幸之助を起業へと導き、後の大きな成功の礎となったのである。

幸之助の病弱さは、皮肉にも経営革新の原動力となった。

創業経営者が直面する最大の課題の一つが、いかに権限を委譲するかだ。バトンタッチの時機を逃し、経営が行き詰まるケースは少なくない。特に、カリスマ的な創業者の場合、「自分でやった方が早い」「任せると失敗するかもしれない」という思いから、権限委譲が進まないことも多い。


幸之助の場合、体が弱いがゆえに、早くから権限委譲を進めざるを得なかった。創業期から妻に頼ることも多く、事業規模の拡大とともに、この傾向は強まっていく。そこで気づいたのが、「人は任されると責任を感じ、工夫する」という真理だった。

この経験をもとに、1933年、幸之助は日本で初めて事業部制を導入する。各事業部に権限と責任を委譲し、独立採算制を敷く仕組みだ。実は、すでに1927年には電熱部新設の際に責任者に一任する方式を採用しており、これを全社的に展開した形だった。

この事業部制は、今では多くの大企業で採用される一般的な組織形態となっている。各事業部が独自の戦略を立て、迅速な意思決定を行うことで、市場変化に柔軟に対応できる。幸之助は、自身の病弱という「弱み」を、むしろ革新的な経営システムを生み出す「強み」に変換したのである。

不運と幸運はコインの裏表
幸之助は、自身の成功を「運が良かった」と語るが、それは単なる謙遜ではない。彼の真骨頂は、一見するとマイナスな状況をプラスに転換する思考法にあった。

象徴的なエピソードがある。創業間もない1919年頃、大阪市内で自転車での配達中に自動車と衝突。幸之助は数メートル吹き飛ばされ、電車道に転倒する。そこへ電車が接近し、機に直面する。しかし、電車は急ブレーキをかけ、幸之助は九死に一生を得る。

自転車は破損し、商品は散乱したものの、幸之助自身は無傷だった。一見、まさに「運が良かった」エピソードに見える。しかし、当時の大阪市内の自動車登録台数はわずか5台だったとか。ほとんど走っていない自動車に衝突し、死にかけるという状況は、むしろ「極めて運が悪い」と解釈することもできる。それを「運が良かった」と捉えるところに、特異な思考法が表れている。



後年、幸之助は成功の理由を「学歴がなかったからや。家が貧しかったからや。体が弱かったからや」と語った。一般的にはハンディキャップとされる要素を、むしろ成功の要因として解釈し直したのである。

運を味方につける方法
幸之助の思考法の特徴は、「負の状況」を嘆くのではなく、そこから新たな可能性を見出そうとする姿勢にある。

学歴がないからこそ、「常識」にとらわれず、「非常識」なアプローチができた。学がなく、会社勤めが厳しかったから、起業できた。起業しても、体が弱かったからこそ、早くから権限委譲を進め、革新的な経営システムを構築できた。

これは単なるプラス思考とは一線を画す。むしろ、与えられた状況の中で最大限の成果を上げようとする、極めて実践的な思考法だ。

イタリアの研究が示すように、確かに運は成功の重要な要素だろう。しかし、幸之助の事例は、運と努力の関係について、新たな視座を提供してくれる。

それは、「成功するために運を味方につける」という考え方だ。マイナスをプラスに変換する思考法、一見するとネガティブな状況でも、視点を変えることで機会に転換する柔軟性、そして何より、とりあえず動いてみる実行力だ。手数を増やすことが運を呼び込むのだ。

2025年を迎えた今、ビジネスの環境は急速に変化している。AIの台頭、地政学的リスクの増大、気候変動問題など、不確実性は増す一方だ。こうした時代において、「不安だ」「自分は不遇だ」と叫んでも何も始まらない。与えられた状況の中で最善を尽くす。とりあえず、手数を増やす――松下幸之助の思考法は、現代のビジネスパーソンにとって、今なお、重要な示唆を与えてくれるのではないだろうか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました