クマの人身被害が報じられるたびに、「かわいそうだから殺すな」と「危険だから絶滅させろ」という声で世論は二分される。さらにメディアのセンセーショナルな報道が重なり、クマへの恐怖心は増すばかり……。そうした状況のなか、置き去りにされているのが現場の行政担当者や捕獲従事者だ。加熱するクマ報道のあり方に専門家が警鐘を鳴らす。※本稿は、生態学者の小池伸介『クマは都心に現れるのか?』(扶桑社)の一部を抜粋・編集したものです。
被害の拡大とともに大きくなる「クマを絶滅させろ」の大合唱
クマについて一般の人々は様々な見解を持っている。また、クマ被害への対策に関しても様々な意見がある。中には「クマなんか絶滅させればいい」というような極端な考え方を持つ人もいる。
2025年、クマ被害がメディアによって報道され始めた最初の頃の一般の世論は「特に子グマを殺すのはかわいそうだから山に返せばいい」という意見が強く、そうした声が行政業務を滞らせることもあった。
しかしその後、人身被害が増えるにつれ、ネット上を含め、一般の人の意見は反対側に振れ始めた。そして、駆除することに対して「かわいそう」という声はかなり抑制されるようになり、目立たなくなってきている。
メディアやネットによる影響なのか、このようにクマをめぐる意見は大きく変化した。スマホやテレビなどの映像のクマ(ツキノワグマ)の印象が独り歩きし、被害の実態がよくわからないまま、世の中の意見を左右したともいえる。
クマ問題の厄介なところは、このようにクマに対する意識が大きく2つに分かれる点である。
極論すれば、かわいい存在でなくてはいけない人たちと、絶滅してゼロになってほしい人たちに分かれる。そこに地域的な差異、都市と地方、行政と市民の考え方の違いなどが加わって問題をより複雑化する。愛玩動物と野生動物を混同している人が多いが、野生動物と愛玩動物は決定的に違う。
多くの人はクマの生態をほとんど知らない
クマというのは不思議な動物である。日本人でクマという動物を知らない人はいないぐらい、誰でも知っている。例えば、赤ちゃん服売り場に行くと動物のマークがついている服が並ぶが、大抵その動物はクマかウサギかイヌである。それぐらいクマは身近だし、誰でもクマという動物を知っている。
しかし、多くの人はクマがどういう動物か、実物や本当の姿をよく知らない。それなのに、かわいいと思った人はかわいいと思い、一方で猛獣だ人食いだというイメージを持つ人もいる。
クマに関するこうした印象や感情などがあって、2025年のようなことが起きてしまうと、かわいいと思っている人たちは「クマかわいそう」となるし、猛獣だと思っている人たちは「ほら見ろ」というふうになる。二極化した人たちに対し、煽ればネットでバズってしまう状況が背景にあり、社会全体が異様な雰囲気になってしまえば、対策をする現場でいったい何をしなければいけないのか、何を優先すべきかというところが見えづらくなってしまう。
もちろん、やらなければいけないことははっきりしている。それを行政は粛々とやっていくだけなのだが、人がやることなので、社会や世論の情勢などにどうしても影響を受ける。
この異様なクマ騒動により、行政なり国がやらなければいけないことがスキップされてしまう危険性があるのは事実だ。
騒動で可視化された5つのクラスター
2025年のクマ被害報道に対する社会の反応は、単純な「賛成」「反対」では整理できない複雑さを見せた。一般視聴者やネットユーザーの反応を分析すると、少なくとも5つの異なる立場が浮かび上がってくる。
第一は、人命最優先の立場である。「まず人が死なないこと」「危険個体は速やかに排除すべき」という考え方で、事故報道や現場映像が出るたびにこの声は強まる。毎日新聞のアンケート調査では「駆除中心」を支持する層が6割台に達した。統計開始以来最悪の被害という事実が、この主張を後押ししている。
第二は、動物福祉を重視する立場である。「殺すのはかわいそう」「人間側の都合で追い詰めた結果ではないか」という倫理観や感情をベースにし、クマを「被害者」と捉える傾向がある。署名活動が立ち上がり、「冬眠中の捕獲」や「子グマの殺処分」といったワードに強い反発を示す。ただしこの立場は、痛ましい事故が続くと社会的に発言しづらくなるという構造的な問題を抱えている。
第三は、現場の当事者の立場である。出没地の地域住民や自治体、捕獲従事者が「役所も猟友会も限界」「観光も物流も生活も崩れる」と訴える。行政担当者が目の前の対応に追われ、本来やらなくてはいけない対策ができないという状況は、この現場の限界を象徴している。「都会の人は口だけ出して手は出さない」という反発も、この層から出やすい。
第四は、抗議やクレームの過熱を問題視する、メディアやSNSの姿勢を疑う、あるいは批判する立場である。この立場は、駆除の賛否とは別の次元で「議論の作法」や「社会の分断」を問題視する。また、ページビューで閲覧数を稼ぐメディアの構造的問題を指摘し、冷静なデータ分析や長期的な視点を求める。この層は比較的少数だ。
第五は、構造的原因に踏み込む立場である。「ドングリの凶作」「里山の管理不全」「過分布拡大」「担い手不足」など、単純な賛否を超えて原因と制度設計を語る。構造的問題に着目し、「クマを殺すか殺さないか」ではなく「どのような管理体制を構築すべきか」という根本的な問いを発する。こうした構造についての議論はSNSでは拡散されにくく、感情的な対立に埋もれがちである。
5つのクラスターは互いに相容れない関係
これら5つの立場は、互いに相容れない部分がある。人命最優先派と動物福祉派は真っ向から対立し、現場の当事者は都市部の両派に不満を持つ。議論の作法を問題視する層はその対立そのものを批判し、メディア批判派はその対立を煽る報道姿勢を批判する。
そして、それぞれの立場には一定数の誤情報に踊らされる層があり、冷静な構造についての議論を求める声が届きにくい。
こうした分断の中で、現場の行政担当者や捕獲従事者は板挟みになり、事故は起き続ける。誰もが「正しい」と信じる立場から発言しているが、その総体が問題解決を遠ざけているという皮肉な状況がある。
クマ問題は、もはや「クマをどうするか」という問題ではなく「分断された社会でどう合意形成するか」という問題になりつつある。こうした世論の分断に、大きな影響を与えているのがメディアである。
メディアによって増幅された「クマは怖い」というイメージ
クマに関する映像がニュースで流れたりネット上で拡散すると、本当にその辺にクマがいるような感覚になってしまうのではないか。実際に体験したことと、映像でのヴァーチャルな印象の乖離は非常に大きいと思う。
今の状況は大衆のクマのイメージがかなりネガティブな方向に進んでおり、クマに接したことがない人ですら「クマなんていなくていい」と言ってしまう。おそらくクマがいない九州でアンケートを取っても、接点すらないのに「クマなんていらない」と答える人が相当数いるだろう。
2025年は、ネット上への一般市民が撮影した映像の流出など情報環境の変化もあった。もちろん、人身被害も深刻なものであり、人々に対してクマの凶暴性を想像させるような被害が発生したが、誰もがスマホで簡単に映像を撮れてしまうということがセットになり、急にクマが凶暴化したかのような印象が作られた。映像による情報伝達は、人々のクマに対するイメージ形成に決して小さくない役割を果たした。
さらに、2025年の特徴として生成AIやフェイク動画の影響がある。AI生成の「クマが優しい・人と仲良し」系の動画や、偽の衝突映像によって、コメント欄が「同情」や「恐怖」に偏っていく現象だ。これは危険行動を誘発したり不必要な恐怖を煽ったりする。生成AI時代の新しい課題と言える。
様々な要素が重なり合って、2025年の大騒動となった。
凶暴化しているクマはごく一部の例外
これらメディアの報道やSNSなどネット上の情報は、クマのイメージを非常に悪化させており、これからのクマの管理にとって非常に厄介な状況だと感じている。クマは生き物であり、何がわかっていて何がわかっていないのかをしっかり伝える必要がある。
一般の人が受ける情報が肥大化し、クマに対するイメージが独り歩きしていく中で、クマという生き物がどういうものなのかを科学的知見から伝えていかなければならない。
例えば、一部のメディアでは2025年に一気に全てのクマが凶暴化したかのような内容の報道があったりした。あるいは、人間を積極的に捕食するようにクマが変化したなど、危険性ばかりが強調される。クマがイヌを食べたという話もネット上でバズり、追いかけで類似した記事が量産される。ページビューで閲覧数を稼ぎ、広告収入で成り立っているようなネット環境では、どうしてもそうなってしまいがちだ。
専門家の立場からすれば、ごく一部のクマが特異な行動を取っているだけとしか考えられないのに、メディアの伝え方はどうしてもセンセーショナリズムに傾く。クマが出ただけでニュースになるような状況が、2025年はなかなか収まらなかった。
クマというのは、地方へ行けば行くほど身近な存在だ。いて当然の存在なのだが、東京などの都会に暮らす人からすると、今まで実感できなかった身近ではない存在で、かつ、これだけ被害が起きている。自分たちの生活に直接関係ないけれどそれでも知りたい、語りたいという感情を煽る部分もあるのだろう。

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